インタビュー:21世紀のサイバネティクス——ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって

インタビュー:21世紀のサイバネティクス——ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって

 

訳:伊勢康平 @yisikp

 

出典:E-flux Journal #102(2019年9月)

URL = https://www.e-flux.com/journal/102/282271/cybernetics-for-the-twenty-first-century-an-interview-with-philosopher-yuk-hui/

 

新著『再帰性と偶然性 Recursivity and Contingency』(2019年)のなかで、香港の哲学者ユク・ホイは、再帰性とは単なる機械的反復ではないと主張している。彼は「規定からの不規則な逸脱」に関心をもち、いわば新生気論者 neovitalist とでも言うべき立場を築いている。これはロボットには生命がある(あるいはロボットはやがて生命をもつだろう)というような、昨今の大衆文化のなかで有力な見方を乗り越えるものだ。「器官学 organology」という語によってホイが示しているのは、技術的な領域の内部で、成長と変化を機能的に模倣したシステムのことである。彼は次のように述べている。「再帰性は、自分自身へと立ち返るループの運動を特徴としている。この運動は自身を確定させることを目的としているのだが、しかし同時に絶えず偶然性に開かれているのである。だがこの偶然性がかえって自身の特異性を決定づけるのだ。」

 

『デジタルオブジェクトの存在について』(2016年)と『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(2017年)に続く『再帰性と偶然性』は、ユク・ホイの三冊目の著作にして、もっとも野心的な仕事だ。この本は五つの章に分かれ、それぞれ異なる時代や思想家を論じている。はじめにサイバネティクスの先駆的存在としてカントの反省的判断力が言及され、その後ヘーゲルの反省の論理に移行し、これがサイバネティクスの出現に備えるものであったことが論じられる。ユク・ホイ(およびベルナール・スティグレール)の器官学によれば、科学と技術は、生命へと回帰する手段にして真の複数性——彼の以前の著作における鍵概念を用いていえば「多様な宇宙技芸」——への道であると考えられなければならないのだという。

 

われわれは、コンピュータの可能性への理解を、目先の利益を志向するシリコンバレー風の「創造的破壊をもたらす」テクノロジーといったものばかりに限定してはならないだろう。ユク・ホイの視線は、テクノロジーに対するこの手の狭い視野のさきを見据えているのである。彼の根本的な哲学的課題とは、昨今のデジタル技術の性質の根底にある哲学的な基盤を探究し、あらたな全体性の形式として(あるいは私がほかの場所で表現したように、「技術的潜在意識」として)あらわれているこのエピステーメーについて検討することにほかならない。現代とは、あくまで利益を最大化し、国家を管理するという名目のもとで、人工的な愚かさ artificial stupidity やアルゴリズムによる排除がネット上の自己を取り巻いている時代である。われわれは、この時代のなかでいかに個体化の問題を思考できるのだろうか? サイバネティクスのなかに、規定から解放された自己は存在するのだろうか?

——ヘールト・ロヴィンク

 

ヘールト・ロヴィンク:はじめに「再帰性」と「偶然性」という用語について説明していただけますか? このふたつの語は、サイバネティクスの中心概念であるフィードバックとどのような関係をもつのでしょうか? また現在の情報革命の原理にもとづかない、まだ見ぬサイバネティクスの技術とはどういうものなのか、その概略を語ることはできますか?

 

ユク・ホイ:再帰性とは、循環するものごとにまつわる一般的な用語です。これは単純な反復ではなく、むしろらせん状に近いものです。つまり、循環自体が閉鎖的なものであれ開放的なものであれ、そのプロセスはおおむね終結へと推移してゆくのですが、ひとつひとつの周回は異なっています。コンピュータ・サイエンスの学生だった私は、この再帰にとても魅力を感じていました。再帰はオートメーションの真髄だからですね。つまり、たった数行の再帰的なプログラムのコードによって、線的な処理方法ではもっと長いコードが必要となるような混み入った問題を解決できるのです。

 

再帰性の概念は、17世紀や18世紀に強い影響力をもっていた機械論的な世界観、とりわけデカルト的機械論からの認識論的な突破を象徴しています。この突破をめぐるもっとも有名な論考はカントの『判断力批判』(1790年)ですね。そこでカントは反省的判断力を提唱します。この概念は、反デカルト的かつ非線的で、自己正当的な(つまり、アプリオリな普遍的法によって決定づけられるのではなく、むしろ特有のものから普遍的法則を引き出す)作動の方式をもつものでした。反省的判断力は、カントの美と自然にかんする理解のなかで重要な役割をはたしており、それゆえこの著作では、二部構成をとって美学的判断力と目的論的判断力がそれぞれ重点的に論じられているのです。カントから出発し、より一般化された再帰性の概念を携えることで、私は20世紀における有機的なものの概念にかんするふたつの思想の筋道、つまり有機体論 organicism と器官学 organology の出現をめぐる分析を試みています。前者は生物学の哲学へ、後者は生の哲学へと開かれています。この本では、こんにちの技術的な現状のもとで有機体論と器官学の文脈を再設定することを目指しました。

 

偶然性は再帰性の中心的概念です。線的な因果関係によって構築される機械論的な作動の方式のなかでは、偶然の出来事は時にシステムの崩壊をもたらします。たとえば、機械は不具合を起こし、産業上の大事故の引き金となることがありますね。しかし再帰的な作動の方式には偶然性が不可欠なのです。というのも、再帰的なシステムは偶然性によって豊かになり、発展しうるからです。生命力をもつ有機体は、偶然性を取り込み、有益なものに転換できますが、現代の機械学習もまた、同じことができるのです。

 

ロヴィンク:フィードバックや「ブラック・ボックス」といったサイバネティクスの概念は、しばしばオートメーションに対する安易な理解をもたらしますが、これを乗り越えるにはどうすればよいでしょうか?

 

ユク・ホイ:デカルトや、のちのマルクス——彼は19世紀のマンチェスターを舞台に人間と機械の関係性について書いています——の時代では、自動化された機械は時計のように均質な単純反復作業をおこなっていました。マルクスが書いていたように、工場労働者に転じた職人は、精神的にも肉体的にもこの種の自動機械と協調できませんでした。というのも、機能的に完結し孤立した自動機械は、いわば周囲から分け隔てられた現実だと言えるからです。マルクスは、疎外の原因はこの協調の失敗にあると考えました。ですが、現代の自動機械はもはやおなじ認識論にもとづいていません。むしろ、機械的処理に偶然性が取り込めるようになったという点で再帰的なのです。

 

これまで資本主義はさまざまなかたちで論じられてきましたが、その語り方のせいで、再帰性が現代の機械において重要な役割を果たしているという事実があいまいにされていました。事実、マルクス主義者は「非物質的労働」や「自由な労働」などといった、きわめてあいまいな語彙を使って情報技術を論じがちです。ドゥルーズは有名な「追伸——管理社会について」のなかでこの点を述べようとしましたが、そのための語彙をもち合わせていなかったため、哲学者のジルベール・シモンドンの変調 modulation の概念を単に借りてくるしかありませんでした。

 

こうした再帰性の評価に関する失敗を乗り越えようと思ったら、やはり再帰性の重要性を理解し、うまく記述し分析する手段を見つけなくてはなりません。マルティン・ハイデガーは、20世紀半ばにおけるサイバネティクスの出現は、哲学の完成と終焉を示していると主張しました。ハイデガーに応答するにあたり、私は哲学史のなかでサイバネティクスの文脈を設定しなおしています。これにはサイバネティクスの可能性と限界をあきらかにするという目的もありました。そのためには、あらたな言語と概念が必要になってきます。この本が再帰性と偶然性という概念の展開に焦点を当てたのはこのためです。私はこれらの概念を有機体論と器官学の理論的な基盤を分析するために用いています。

 

有機体論はふたつの系譜に分けることができます。ひとつは自然の哲学——フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング、ジョセフ・ニーダム、ジョセフ・ヘンリー・ウッジャーやアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドなどがよい例ですね——もうひとつは私が「機械的有機体論」と呼んでいるもので、サイバネティクスやシステム理論を含めるものです。これらの歴史的分析を通じて、私はサイバネティクスの分野を越えて再帰性を考えようとしました。このねらいは本の構成に反映されています。この本では、最初の二章でカントからサイバネティクスにいたる有機体論の歴史をたどっています。ここで経由しているのは、シェリング、ヘーゲル、ノーバート・ウィーナー、そしてクルト・ゲーデルです。そして第三章と第四章では器官学の歴史をおもに論じています。ここではカントから始まり、アンリ・ベルクソン、ジョルジュ・カンギレム、シモンドン、ベルナール・スティグレールへと移り、この伝統にかんする私自身の考察を添えています。最終章では、あまりに人間主義的な近代のテクノロジーがもつ全体性への志向性に抵抗するための政治哲学を展開しています。

 

ロヴィンク:デジタル化が支配するいまの世界において、機械論とはいったい何なのでしょうか? 19世紀の機械論的世界観は、本質的に生命なき生命体を説き明かそうとしていました。ですからこれは、こんにち影響力をもっている「有機的」なものの観点にとって代わられてしまったわけです。にもかかわらず、あえて機械論から距離をおかねばならないと主張するのはなぜでしょうか? まだ機械論がイデオロギーとして生きているというのですか?

 

ユク・ホイ:私たちが生きているのは、いわば新機械論の時代です。そこでは技術的対象が有機的になりつつある。18世紀の終わりにかけて、機械論が台頭しつつあるなか、カントは哲学にあらたな生命を吹き込もうとしました。そこで彼は、有機的なものというあらたな哲学的思考の条件を設定したのです。機械論的といっても、かならずしも機械に関係していればよいというわけではありません。むしろ蒸気機関などの熱力学的な機械や時計といった線的な因果関係にもとづいてつくられた機械に関連したものなのです。さきほど私は、カントが哲学的思考の条件として「有機的」なものを設定したと言いましたが、それはつまり彼以後の哲学が有機的なものでなければならないということでもあります。ですから、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテやシェリング、ヘーゲルらカント以後の哲学者のなかには、自然哲学から政治哲学にいたるまで、あきらかに有機的な思考の形態が見られます。そしてもしカント以後の哲学が、機械論を自身の対になるものだと考えていたならば、まさにロヴィンクさんやほかの人々が気づいたように、いまやこの対となる相手自体が有機的存在へと変化してしまったと言えるでしょう。コンピュータ、スマートフォンや家庭用ロボットはもはや機械論的とは言えず、むしろ有機的になりつつあります。私はこの状況をあらたな哲学的思考の条件として提示しているのです。哲学は労を惜しまず[機械論のアンチテーゼとしての]有機性という自己満足から脱却し、あらたな思索の領域を切り開かねばなりません。

 

私がこの本のなかで詳細に論じようとしたのは、哲学とテクノロジーの歴史だけではありません。それに加えて、有機的な思考の形態、あるいはカント以後のあらたな哲学的思考の条件のあとにくるものとはなにかという問題があります。21世紀の機械と産業をめぐる実状は100年前とまったく異なっていますが、にもかかわらず有機体論はいまだにこんにちの産業主義を矯正する手立てになると考えられています。事実に反する分析は、現状の理解と判断に際してあやまった認識を導くばかりか、有害ですらあるでしょう。いまや社会信用システムから「スーパーインテリジェンス[人間の知力を超越する人工知能]」にいたるまで、さまざまな技術的な器官に実装されたプロセスのなかに有機的思考が入り込んでいます。こうした思考には、異なる性質をもつ諸物をひとくくりにする傾向がありますが、哲学はこの傾向を否定しなくてはなりません。おそらくジャン=フランソワ・リオタールは、はやくも40年まえに『ポスト・モダンの条件』の、とりわけニクラス・ルーマンのシステム理論を批判した箇所のなかで、この問題を考えていました。ですから、いまリオタールを慎重に読みなおす必要があるでしょう。本書の最終章でリオタールと「非人間主義」を専門的に論じたのもこのためです。私はこの議論を断片化 fragmentation の哲学として洗練させようと考えています。

 

ロヴィンク:この本のなかで、ベルクソンなどの生気論者にとって人工的なシステムは機械的で現実性を帯びたものではなかったと述べていますね。つまり「科学が機械的になると、生命そのものである創造性が理解できなくなる。生命とは破壊のなかの創造という再帰的なプロセスなのだ」と。

 

この箇所ではカンギレムが引用されています。彼はフーコーの指導者で、1966年の『生命の認識』では「科学によって生命へとふたたび接続する」べきだと主張していますね。

 

ユク・ホイ:ベルクソンは有機的なものと機械的なものを対立させた哲学者でした。これにはさきほど簡単に触れた歴史的背景が関与しています。つまり19世紀は機械論や物理学、産業主義の時代だったわけですね。1907年にベルクソンは『創造的進化』を刊行しましたが、カンギレムはこれを同年に創刊された『生物学年報 L’Année Biologique』と並び、フランスにおける生物学の哲学の誕生を示すものだと考えました。1947年の「機械と有機体」というエッセイのなかで、ベルクソンの『創造的進化』には「一般器官学」があるといったのもカンギレムにほかなりません。生命への回帰とは有機的な全体性への回帰のことであり、この全体性が機械的な部分を成り立たせます。ベルクソンはこの有機的な全体性を「生命の飛躍 élan vital」と呼びました。生命とは再帰的なプロセスです。つまり、創造と破壊のプロセスを通じた(ゲシュタルト心理学の用語を用いれば)図と地のたえざる交換なのです。

 

進化が創造的であるのもこのためです。というのも、進化は本質的に器官学的だからです。つまり、進化とは人間がたえずあたらしい器官(いくつかの図)を生み出すことを強いられるプロセスですが、しかしその際あらたな器官によって現実が見えなくなることはありません。つまりひとはそれらの器官が現実のすべてであるとは考えないのです。他方機械論は生命を説き明かそうとしますが、[機械論的な仕方で論じられるものが]生命の一部、つまりひとつの図であることに気づかないのです。とはいえ、ベルクソンが試みたのはより広範な現実、つまり生命そのものへと機械論をつなぎなおすことでした。なのでベルクソンは、科学はおろか機械論にさえ反発していません。彼はむしろ科学が機械的になり生命をないがしろにすることに反発していました。ですからベルクソンとカンギレムとのあいだには、ほとんど対立はないんですね。ふたりとも生命なき生命体を説き明かすというもくろみを拒否していましたから。彼らは「科学によって生命へとふたたび接続し」ようとしていたのです。

 

ロヴィンク:いまや社会やテクノロジーの文脈において生物学的なメタファーを無批判に使うのはやめるべきではないでしょうか? 私の政治世代では、こうした言葉の使用が広く問題にされました。システムの「進化」について語る理由はどこにありますか? ほとんどのテクノロジーが人間ないし男性のエンジニアによって意図的に製作されていることを知っていながら、なおその「創発」を語ったところで、なにが得られるというのでしょうか?

 

ユク・ホイ:いまや(人間対機械といった)特定の二元論的な論理は多かれ少なかれ乗り越えられているわけですが、しかし二元論の批判自体は、いまだにさまざまな社会的、政治的なプロジェクトに欠かせないものとして用いられています。近代の超克などがその例ですね。この手の二元論批判がはらむ無知は問題含みだと思いませんか? ですが、こうした問題のすべてについて批判的に検討するにはどうすればよいでしょうか? この問いの検討も本書のねらいです。ここでひとがサイボーグになるとはどういうことかを考えてみましょう。結局のところ、ダナ・ハラウェイは一貫して有機体論者でした。彼女の仕事は、 1990年代に機械的なものと有機的なものの二項対立を乗り越えるにあたっては重要だったでしょう。しかし、伝統的な有機的思考の形態は、当時すでに終わりをむかえていたのです。おそらくいま私たちは、さきほど説明し、本書のなかで詳しく論じたあらたな哲学的思考の条件から、こうした概念のすべてを再考する必要があるのではないでしょうか。

 

具体的な問いを立ててみましょう。義手や義眼をはめたひとのなかでは、有機的なものと機械的なものがもはや対立関係にないわけですが、このようなひとは果たして人間だと言えるのでしょうか? 角度を変えていえば、身体の全部位の取り替えと拡張が可能だという信念をもつトランスヒューマニズムの考えは、じつのところ線的な思考の方式にもとづいていて、極端な人間主義を表しているのではないかということです。表面的に見れば、トランスヒューマニズムは人間の概念を捨て去ろうとしていますが、この身振りは単なるカムフラージュに過ぎません。トランスヒューマニズムは、すべてを形而上学的なまなざしによって捉えているという点で、典型的なまでに人間主義的な世界へのアプローチなのです。

 

器官学の観点から考えることにはどのような意義があるのでしょうか?「一般器官学」という言葉はカンギレムの「機械と有機体」で作られたものですが、この問いをだれよりも深く論じたのは、ほかでもなくベルナール・スティグレールでした。彼は2003年ごろ、ポンピドゥ・センターのIRCAM[フランス国立音響音楽研究所]のディレクターであったときに器官学の概念を発展させました。IRCAMとは実験音楽を専門的に研究する機関です。器官学という言葉自体は、じつはベルクソンではなく音楽に由来しています。カンギレム、スティグレール、ベルクソンとそれぞれ動機が異なっていたにもかかわらず、三人とも人間は無機的なものの組織化によってのみ生命を維持できるという考えを述べています。無機的なものの組織化とは、要するに道具の発明と使用のことです。これを受けて、つぎのように問題提起すべきなのかもしれません。つまり、人工知能と機械学習の発展によって、私たちは生命へとふたたび接続できるのかと。

 

議論をさらにすすめましょう。これらの機械がもはや単なる「組織化された無機的」存在などではなく、むしろ製造をつかさどる巨大なシステムだとすればどうでしょうか? 技術的対象から技術的なシステムへの進化は、私の『デジタルオブジェクトの存在について』における焦点でした。『再帰性と偶然性』では、この問題がさらに深く論じられています。いまやシステムは、人間の生命と社会的秩序を有機的につなぎあわせる媒介者です。ですから私は、上記の諸問題に立ち戻り、人類学者や哲学者たちが発展させてきた器官学の概念を、現状分析に活用できるよう拡張しなければならないと考えています。

 

ロヴィンク:この新著の末尾にかけてあなたは、再帰的な思考によって有機体論や技術的多様性への問いを再度立ち上げることができなければ、それは「おのれの破壊へ向かって推移し続ける」決定論的システムに利用されて終わるだろうと述べています。

 

いまや還元主義的な学派が世界を席巻しているのは私たちも承知のうえですが、ならば非還元主義的な学派とはどのようなものなのでしょうか? このような学派に参与するためになにができると思いますか? また、非還元主義は思想的運動と言えるのでしょうか? こうした学派として、あなたはどんな組織のかたちを構想していますか? フランクフルト学派やバウハウスなどですか? あなたの発想のもとになった現代の例はありますか?

 

ユク・ホイ:まったくおっしゃるとおりです。これはさまざまな角度からテクノロジーへの理解をすすめ、実践をおこなうあらたな運動ないし学派にならなければいけません。近年、多くのひとがブラック・マウンテン・カレッジのモデルのある種の再興を話題にしていますね。というのも、バウハウスが試みたように、こうしたあたらしい運動にはなによりまず、産業界の変化を目的としたあらたな教育の筋道や集団のかたちが必要になってくるからです。私のほうでも、2014年に「哲学と技術のリサーチネットワーク」を立ち上げました。そうしてこれまでさまざまな機関や人物との協力関係を発展させてきましたが、まだまだ道のりは遠いのが現状です。この問題はまちがいなく共同のプロジェクトとなるでしょう。ですから、こうした現状分析や問題意識を共有する研究者たちが参与してくれることが必要なのです。

 

ロヴィンク:サイバネティクスは現在の形而上学なのでしょうか? ハイデガーはサイバネティクスが哲学にとって代わるだろうと予測したかと思いますが、少なくとも西洋の学術界には、いまのところその兆しはないですね。技術哲学もせいぜい哲学の周縁的な下位分野でしかない。ならば、いまこそ学問の分野に抜本的な改革が必要なのでしょうか?

 

ユク・ホイ:『再帰性と偶然性』では、形而上学の終焉にかんするハイデガーの見解はただしく、それゆえハイデガーを越えて思考することが不可欠だということをあきらかにしようと試みています。1966年に『シュピーゲル』誌の記者から、哲学のあとにくるものはなにかと問われたハイデガーは、ひとこと「サイバネティクス」と答えました。ハイデガーに言わせてみれば、有機的なものとは、機械的-技術的なものによる近代性の自然に対する勝利でしかありません。ですから私は、有機的な思考の形態や、それが生じた領域である生態学やサイバネティクス、ガイア理論などはみなハイデガーのいう「終焉」のあかしだと考えています。問題はこの終焉をいかに乗り越えるか、なのです。

 

ハイデガーはまた、1964年の「哲学の終焉と思索の課題」という論考のなかで、哲学の終焉とはやがて世界の文明が西洋の思想にもとづいたものとなってしまうことだと述べています。もちろん、これは物議をかもす主張でしょう。そしてこの主張をさまざまな領域にわたって論じたのが、私の二冊めの本である『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』です。

 

宇宙技芸 cosmotechnics という概念は、それぞれの文化や時代が技術にたいする多種多様な考え方をもつという発想に関連しています。宇宙技芸は『再帰性と偶然性』でも中心となっています。というのもこの本では、ハイデガーが近代のテクノロジーの本質だと考えた「集立(Gestell)」の概念を発展させることを目指しつつ、テクノロジーに対するさまざまな理解を再構築しようと試みているからです。私はサイバネティクスを捨て去ればよいといっているのではありません。むしろその限界と可能性の両方を認識すべきだと言っているのです。

 

『再帰性と偶然性』には、ジョセフ・ニーダムという人物を介したサイバネティクスと中国思想の対話が含まれています。これを『中国における技術への問い』の第17節に対するひとつの注釈だとみなしてもよいでしょう。そこで私はニーダムが中国哲学の特性は有機体論であると述べたことについて議論しています。この本では、中国の技術的な思考の存在は、宇宙や道徳に対する異なった理解にもとづいているのだと主張しているのですが、幸いなことにこの主張は中国、日本、韓国で歓迎されています(おおむねこれらの地域の思想が似ているからでしょう)。若い学者や研究者のなかには、この問題に熱心に取り組んでいるひともいますね。この本は韓国語訳がすでに刊行されましたし、中国語と日本語の翻訳も今年中には出るようです。

 

世界の文明がいまや完全に西洋思想にもとづいたものとなっているというハイデガーの言葉にしたがえば、哲学の終焉とは西洋以外の思索の方法の要請だと言うこともできます。たとえば、いわゆるグローバル・サウスが自分たちの宇宙技芸や技術的思考を再発見し、それによってテクノロジーの発展全体にあらたな方向性を与えることはできるのでしょうか? 昨今の米中の政治的争いが引き起こしたファーウェイへの深刻な打撃によって、ファーウェイ独自のOSの開発が余儀なくされるのでしょうか? あるいは単に中国語で記述されたアンドロイドのヴァージョンが開発されるだけなのでしょうか? これは来るべきあらたなテクノロジーの指針や地政学にとって決定的なことなのです。

 

さきほど技術哲学についておたずねになりましたが、私は細かい分野のなかからあえて選ばざるをえなくなった場合を除き、基本的に自分のことを技術哲学者だと言うことはありません。スティグレールのように、私もたいてい技術が第一哲学だと考えています。哲学とは、つねに所与の時代の技術的状況によって条件づけられ、生み出されるものです。

 

ロヴィンク:サイバネティクスが研究者たちのあいだで哲学にとって代わっていないように、「ディジタル・スタディーズ」や「インターネット・スタディーズ」といった分野もまだ十分に浸透してはいません。ただ、その一方でいわゆる「ディジタル・ヒューマニティーズ」が台頭してきていますね。いわば衰退しつつある学問分野を内側から刷新するという汚れ仕事を与えられてきたわけです。じっさい、データ主導ではない人文学的アプローチは消えてゆきつつあるわけですが、ここではいったいなにが起こっているのでしょうか?

 

ユク・ホイ:こんにちでは、あらゆる分野で人工知能や機械学習、ビッグデータが研究テーマとして求められています。たとえば社会学、建築学、哲学、人類学、メディア・スタディーズや自然科学などなど、どこもそうですね。ですが、ロヴィンクさんもおっしゃったように、たいていの場合これによって研究の論点がむしろ狭くなってしまっている。私はディジタル・ヒューマニティーズ自体に反対する気はありません。問題は研究の指針があまりに限定的であることです。私は二年前にイングランドにあるディジタル・ヒューマニティーズ関係の学部から教員採用の面接に呼ばれたことがあります。ただその後先方から、いささか残念そうな面持ちで哲学者ならいまは必要ないのだと言われました。

 

おそらくテクノロジーは、端的に異なったいくつもの分野をつなぐ共通の糸のようなものとなっています。言い換えれば、じつに多くの分野がテクノロジーという難題に応答しようとしているのです。この状況は、20世記のメディア論や技術哲学、文学研究の枠組みに限定されない、ラディカルな技術的思考のあらたな形式をもたらすのではないでしょうか? ディジタル・ヒューマニティーズはまだ世界的な学問分野にはなっていません。ですが、やがてさまざまな地域に受容されたとき、この分野自体が問いに付され、再定義されることでしょう。このような問題こそ、さまざまな分野の研究者が一緒になって考えなければならないことだと思います。私たちはこれをきっかけにして、既存の学問分野を再考し、あらたな思想を発展させなくてはなりません。

 

ロヴィンク:ディジタル・テクノロジーの積極的な活用と、こうしたテクノロジーによって引き起こされた変化に対する根本的な理解とのあいだの隔たりは、日増しに大きくなっています。この隔たりを埋めるにはどうすればよいとお考えですか? 私には、急速に閉鎖的になり、いよいよ退行の度合いを高めつつあるヨーロッパ大陸がこの隔たりを埋めているとは思いません。ならば、私たちはあらたな技術的思考への希望をアジアに託すべきなのでしょうか? あるいは、各地へ分散した知的生産のネットワークを構想すべきなのでしょうか?

 

ユク・ホイ:私たちは、これまで数十年間にわたって用いられてきた教育システムや学問分野の区分を考えなおす必要があるでしょう。既存の諸分野のあいだの隔たりを埋めるのはおそらく不可能だと思います。というのも、この手の隔たりはいくら埋めようとしても維持されてしまうからです。たったひとつの可能性は、はじめからこのような隔たりが存在しないあらたな学問分野を作り出すことです。

 

私は青春時代にイングランドやフランス、ドイツで研究し、仕事をしました。それはこの上なくすばらしい時間でしたし、ヨーロッパは私の心に深く根づいています。ですがヨーロッパでは、レイシズムや保守主義がますます勢いを増しており、私はそれによってヨーロッパが衰退してしまうのではないかと懸念しています。私はけっして、あらたな技術的思考が必然的にヨーロッパではなくアジアから生まれてくると言いたいのではありません。しかしそうした思考は、複数の思考のシステム間の非互換性から生じるものにほかならないのです。というのも、諸文化間の従属も征服も回避しつつ、思考そのものに個性を与えられるのは、とりもなおさずこの非互換性だからです。ですが私は、ヨーロッパにこれを受け入れる準備ができているのかどうか、ますます疑問に感じつつあります。現代の哲学とテクノロジー、そして地政学の関係性をあらためて論じなおすことはきわめて重要だと思いますが、どうやらこの問題はまだほとんど思考されていないようです。

 

ユク・ホイはベルリンを拠点にする哲学者。著書に『デジタルオブジェクトの存在について』(ミネソタ大学出版、2016年)、『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(MIT出版、2016年)、『再帰性と偶然性』(ローマン&リトルフィールド、2019年)がある。

 

ヘールト・ロヴィンクはオランダのメディア理論研究者、インターネット批評家。2004年からネットワーク文化研究所主任。新著に『デザインによる悲しみ』(プルート出版、2019年)。

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出版:東浩紀「データベース的動物は政治的動物になりうるか」(1)