論文: ユク・ホイ 『百年の危機』

6月 22, 2020

百年の危機

ユク・ホイ Yuk Hui

訳=伊勢康平 Kohei Ise

★=原注 ☆=訳注

[]=著者補足〔〕=訳者補足

 

 

もし、哲学がかつて役にたち、欠陥をおぎない、あるいは病を予防するものとしてあらわれたことがあったのなら、それは健全な文化のなかでのことだった。病におかされたものにとっては、哲学は病をいっそう重くするだけなのである。

——ニーチェ「ギリシア人の悲劇時代における哲学」[☆1]

 

 

 1「精神の危機」から100年後に

 

1919年、第一次世界大戦が終結したあと、フランスの詩人ポール・ヴァレリーは「精神の危機」のなかで言った。「われわれ後世の文明は……自分たちが死すべき者であるとあまりに思い知っている」[★1]。私たちは、いつもこのような破局のなかで、それも一撃のあと après coup としてのみ、自分たちが脆弱な存在だと思い知るのだ。そして「精神の危機」から100年後、この惑星は中国からきた一匹のコウモリによってあらたな危機を迎えている——コロナウイルスがほんとうにコウモリに由来するのなら。もしヴァレリーがまだ生きていれば、彼もフランスの自宅からの外出を禁止されていたことだろう。

 

1919年の精神の危機のまえにはニヒリズムが、つまりある種の虚無があった。それは1914年よりまえにヨーロッパにとり憑いていたのである。まさにヴァレリーは、大戦前の知識層についてこう言っている。「私は目のあたりにする……無を! 無……ただし無限の可能性を秘めた無を」。また1920年の「海辺の墓地 Le Cimetière Marin」というヴァレリーの詩には、「風が吹き起こる! ……生きようとしなければならない!」[☆2]というニーチェ風の肯定主義的な呼びかけを見てとることができる。この一節はのちに〔「風立ちぬ」という堀辰雄の訳で〕宮崎駿のアニメーション映画のタイトルに用いられた。これは堀越二郎という技術者を描いたもので、彼は大日本帝国のために、のちに第二次世界大戦で使用されることになる戦闘機を設計した人物である。ヴァレリーが直面したこのようなニヒリズムは、ニーチェ的な試練というかたちで再帰的にあらわれる。つまり寂寥きわまる孤独のうちにデーモンが忍び込み、おまえは永劫回帰のなかを生きたいかと問いかけるのである——おなじ蜘蛛におなじ樹の間の月光、そしておなじ問いを投げかけるおなじデーモン……[☆3]。このニヒリズムと共に生きることも、正面から向きあうこともできないような哲学は、なにひとつ充分な答えを出さない。なぜならそのような哲学は、病をかかえた文化の容態をより悪化させるだけだからだ。あるいは、私たちの時代でいえば、そうした哲学は、せいぜいソーシャルメディアで流行りのおかしな哲学的ミームのうちに引きこもるしかないのである。

 

ヴァレリーが戦っていた当のニヒリズムは、18世紀以来、技術の加速とグローバル化によってたえず育まれてきた。ヴァレリーは、さきのエッセイの終わりにかけてつぎのように述べている。

 

しかし、ヨーロッパの精神は、あるいは少なくともそのもっとも貴重な内容は、余すところなく伝播しうるのだろうか。民主主義や地球の資源開発、それから技術の一般的な普及といった現象は、ヨーロッパの公民権喪失 deminutio capitis の前兆となっているが……そのすべては運命の絶対的な決断だと考えられなければいけないのか?[★2]

 

かつてヨーロッパは、このような伝播を肯定しようとしたのかもしれないが、しかしいまやこの伝播の脅威に直面しうるのはヨーロッパだけではない。そしておそらく、ヨーロッパの「悲劇性 tragist」[★3]の精神では、この脅威をふたたび完全にのりきることはできないだろう。「悲劇性」とは、なによりまずギリシア悲劇と関連している。それはまた精神内部に生じる矛盾を解決しようと努力する精神そのものの論理でもある。私は、「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」やそのほかの論考のなかで、啓蒙主義以来、衰退してゆく一神教に代わって技術一元論 mono-technologism(または技術一神論 techno-theism)がいかに台頭したかを描こうとしてきた。この流れは、こんにちのトランスヒューマニズムによって頂点に達している[★4]。私たち現代人は、いわばヨーロッパのハムレットの文化の継承者である(ヴァレリーの「精神の危機」のなかでは、ハムレットがライプニッツ、カント、ヘーゲルおよびマルクスの頭蓋骨を数えあげながらヨーロッパの知的遺産を回顧している)。というのも、ヴァレリーの論考から100年を経たいまもなお、私たちはいつか不死身になれると信じてきたし、まだ信じ込もうとしているのだから。つまりひとは、やがて免疫のシステムを向上させてあらゆるウイルスに対抗できるようになると、また最悪の事態が起こったときにはたんに火星へ逃げればよくなると信じているのだ。コロナウイルスのパンデミックのただなかにあって、火星への旅にかんする研究は、ウイルスの拡大阻止や人命救助とは無関係だろう。トランスヒューマニストたちは、それぞれキャッチコピーを用いて不死身を喧伝してきたが、いまだにこの地球と呼ばれる惑星に住みついているわれわれ死すべき者には、彼らの言葉どおり不死身になるまで待てる見込みなどないだろう。ニーチェ以後のニヒリズムをめぐる薬理学 pharmacology はまだ書き表されていないが、しかしニヒリズムの毒はすでに地球の全身に蔓延し、免疫システムに危機を引きおこしているのである。

 

ジャック・デリダにとって(彼の寡婦であるマルグリット・デリダは、ちかごろコロナウイルスで亡くなった)、2001年9月11日の世界貿易センタービルへの攻撃は、ひとつの自己免疫的な危機の出現を明らかにした事件であった。この危機は、何十年にもわたって安定していた技術政治(テクノポリティクス)的な権力構造を解体したのである。一機のボーイング767が、その航空機を開発した国家への武器として用いられたさまは、さながら体内で突然変異した細胞やウイルスのようであった[★5]。ただ、政治的な文脈では「自己免疫」という用語はたんなる生物学的な隠喩でしかない。グローバル化とは、科学技術や経済の覇権が安定性を左右するような単一の世界システムをつくりだすことである。それゆえ、9・11はひとつの断絶だと見なされることになった。それは啓蒙主義以来、キリスト教にもとづく西洋社会が志向してきたこの政治体制を終結させ、戦争につぐ戦争という永続的例外状態としてあらわれる免疫反応を引きおこしたのである。しかし、いまやコロナウイルスによってこの隠喩は崩されてしまった。生物学的なものと政治的なものはひとつになった。ウイルスを抑え込む試みには、消毒液や薬剤だけでなく、軍事動員や、国や境界および国際線航空便や鉄道のロックダウンも含まれているのである。

 

『シュピーゲル』誌の1月下旬に刊行された号には「コロナウイルス、メイド・イン・チャイナ——グローバル化が死にいたる危険となるとき Corona-virus, Made in China: Wenn die Globalisierung zur tödlichen Gefahr wird」というタイトルがつけられていた。表紙には過剰な防護服に身を包んだ中国人が、まるで神に祈るかのようにほとんど目を閉じて iPhone を見つめている写真が用いられた[★6]。コロナウイルスの感染爆発はテロリストによる攻撃ではない(目下、中国で最初に発見されたという以外には、ウイルスの発生源を示す明確な証拠はない)。それはむしろ器官学的 organological な事件[☆4]であって、つまりウイルスは高度に発達した輸送網に付着して、時速900キロもの速さで拡散しているのである。私たちはまた、この出来事によって、国民国家の言説や、諸国家が定義づける地政学へと回帰するだろう。回帰という言葉で私が言いたいのは、なによりまずグローバル資本主義や、文化交流や国際貿易に促進される移動の増加のせいで一見あいまいになっていた国境が、コロナウイルスによって意味を回復するということだ。地球規模の感染爆発が明らかにしたのは、こんにちまでのグローバル化が、結局のところ〔西洋近代が生みだした〕技術一元論的な文化を助長するものにすぎず、そのような文化はせいぜい自己免疫的な反応や大きな衰退をもたらすものでしかなかったということなのだ。もうひとつは、今回の感染爆発と国民国家への回帰によって、国民国家という概念そのものがもつ歴史的かつ現実的な限界が明らかになったということだ。近代的な国民国家は、内的な情報戦によってこの限界をおおい隠し、国境を越えて展開する情報圏 infospheres を構築してきたのである。しかしこの情報圏は、グローバル免疫学を生みだすことなく、むしろ生物戦を遂行するために地球上のあらゆる空間で生じる端的な偶然性を利用しているのだ。私たちはまだ、このグローバル化の段階に対抗するためのグローバル免疫学というものをもっていない。おそらく、それはこの技術一元論的な文化が存続している限りけっして実現しないだろう。

 

 2 ひとりのヨーロッパ人シュミットは、数百万の亡霊を見る

 

2016年、ヨーロッパで難民危機がおこっていたとき、哲学者のペーター・スローターダイクは、『キケロ』誌のインタビューのなかでドイツ首相のアンゲラ・メルケルを批判してこう言っている。「私たちは、いまだに国境を賛美することを学んではいません……遅かれ早かれ、ヨーロッパ人は効果的な共通の国境政策をつくりだすことでしょう。長い目で見れば、領土にかんする要請が優先されるのです。結局のところ、自滅しなければならないという道徳的な責務などないわけですから」[★7]。ドイツやEUは難民に対して国境を閉ざすべきだったというスローターダイクの主張はまちがっていたかもしれないが、いま思えば国境の問題がまだちゃんと考え抜かれていないという点については正しかったといえるだろう。ロベルト・エスポジトは、国境の機能にかんしては、二元的(二極的)な論理がずっと存在しているとはっきり述べている。つまり、外敵からの免疫学的な防御手段として——これは自己と他者の対立という、免疫学についての古典的で直感に訴える考え方だ——より厳格な国境の規制をつよく主張するひとがいる一方で、ひととモノの自由な移動と協同の可能性を認めるために国境を撤廃するべきだと主張するひともいるということである。エスポジトは、この両極端な立場はいずれも倫理的かつ現実的に望ましいものではない[☆5]と主張しており、その点はいまやある程度明白になっている[★8]。

 

中国でのコロナウイルスの感染爆発は11月の中旬にはじまり、1月下旬になって当局による警告が発令され、ついで同23日に武漢がロックダウンされたわけだが、その結果中国人や、ひいてはアジア系の外見をしたひとすべてがウイルスの保菌者だと見なされ、即座に各国で国境の規制がおこなわれた。イタリアは、もっとも早い段階で中国に対し渡航禁止を言い渡した国のひとつである。早くも1月下旬には、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院が「東洋系」の学生の出席を禁止した。そこには生涯で一度も中国へ行ったことがないひとすらも含まれている。こうしたふるまいは免疫学的といえるのかもしれない。だがそのもとになっているのは恐れであり、より根本的には無知なのだ。

 

香港は、湖北省以外で大規模な感染爆発がおこった地域のひとつである広東省の深圳に隣接した都市である。そこでは中国との境界を封鎖するよう政府につよく求める声が上がったのだが、香港政府は、中国に対して渡航と貿易の制限を押しつけないよう呼びかけるWHOの忠告を根拠に、これをしりぞけている。中国にあるふたつの特別行政区のひとつとして、香港特別行政区は中国に反発したり、ちかごろ勢いにかげりが見えつつある中国の経済成長の足を引っ張ったりしてはいけないというわけだ。しかし、香港のレストランのなかには、入口に貼り紙をして、普通話〔中国の標準語〕を話す客はお断りだと表明する店もある。つまり普通話がウイルスを運ぶ大陸の中国人と結びつけられてしまい、その話し方が危険のサインだと見なされているのである。平常時にはお金を払えるすべてのひとに開かれているはずのレストランが、いまや特定のひとにしか開かれていないのだ。

 

すべてのレイシズムの形式は根本的に免疫学的だ。そしてレイシズムは社会的な抗原である。なぜなら、それは自己と他者を明確に区別し、他者がもたらす一切の不安定さに反応するからだ。しかし、すべての免疫学的なふるまいがレイシズムとされうるわけではない。この両者の微妙な違いにきちんと向きあわなければ、まるで闇夜のなかではどんな牛も黒灰色に見えると言わんばかりにすべてを崩して一緒くたにしてしまうことになるだろう。じっさい、地球規模のパンデミックという状況下で、大陸間をむすぶ航空便や鉄道がウイルスによる汚染を促進しているとき、免疫学的な反応はとくに避けられないものになる。武漢閉鎖のまえには、500万人もの居住者が脱出し、故意でなかったにせよウイルスを都市の外へ運び出す結果になった。だがじつのところ、武漢から来たというレッテルが貼られるかどうかは重要ではない。というのも、ウイルスが数日のあいだは無症状のまま人体に潜伏しており、その間周囲を汚染させ続けることを考えると、だれもが感染を疑われるからだ。外国人嫌悪やマイクロファシズムが街やレストランなどに広がってしまうと、なかなか容易には避けられない免疫学的な瞬間がうまれる。つい咳をしようものなら、あなたはまわりのすべてのひとの視線を集めることになるだろう。人々は、かつてペーター・スローターダイクが提示したような、保護であり社会組織でもあるものとしての免疫圏 immunosphere をいつにも増して求めている。

 

免疫学的なふるまいは、単純に人種差別的なふるまいに還元できないものではあるが、おそらく個人的、社会的、そして国家的な境界への回帰を正当化してしまう。自己と他者のパラダイムや有機体論的なパラダイムをめぐる数十年もの議論のすえに、生物や政治の免疫学における近代国家のモデルは、境界の規制というもっとも単純で直感に訴える保護のかたちに戻ってしまったのである。しかも敵が目に見えていないにもかかわらず[★9]。じつのところ、私たちが戦っているのは敵の化身でしかないのだ。私たちはみな、カール・シュミットのいう「政治的なもの」に縛られている。それは友と敵の区別によって定義されるもので、簡単に否定できないばかりか、おそらくパンデミックの際にはより強化されてしまうのである。目に見えない敵は、具体化され、明確化されなければならない。それは、当初は中国人やアジア人であり、のちにヨーロッパ人や北アメリカ人になった。あるいは中国国内でいえば、それは武漢在住者のことだ。外国人嫌悪はナショナリズムを助長する。外国人嫌悪は避けがたい免疫学的なふるまいだと考えてしまう自分がいたり、あるいは外国人嫌悪を利用し、いわば免疫学として自分たちのナショナリズムを強化させる他者がいたりすることによって。

 

国際連盟は第一次世界大戦後の1919年に設立され、のちに国際連合に引き継がれた。それはいわば、すべての国家をひとつの組織に結集させることで戦争を回避しようとするひとつの方策だった。この試みに対するカール・シュミットの批判は正当だと言えるだろう。彼は、国際連盟——昨年で設立100周年を迎えた——は誤って人類 humanity を世界政治の基盤と見なしたが、しかし人類は政治的な概念ではないと主張したのである。人類とはむしろ脱政治化の概念だ。なぜなら、じっさいには存在しない抽象的な人類を定めることによって「平和・正義・進歩・文明などが自分たちのものだと主張しつつ、敵のものであることは否定するために、これらの概念を濫用しうる」からである[★10]。よく知られているように、さまざまな国の代表によって構成された集団である国際連盟は、20世紀最大の破局つまり第二次世界大戦を防ぐことができなかった。のちに国際連合に替わったのはそのためである。ではこのシュミットの議論は、世界保健機関〔WHO〕に、つまり国境を越えて地球規模の健康問題にかんする警告や提言、管理をおこなうことを旨とするこのグローバルな組織にも適用できるのではないだろうか。WHOがコロナウイルスの感染拡大防止に対してほとんどなんのポジティヴな役割もはたしていないことを考えると——ネガティヴな役割があったというのは言いすぎかもしれないが、WHOの事務局長は事態がだれの目にも明らかになるまでパンデミックと呼ぼうとすらしなかったのである——いったいWHOになんの必要性があるというのか。もちろん、この組織の内外でじっさいに携わっている専門家たちの仕事はおおいに尊敬すべきだが、しかし今回のコロナウイルスの一件によって、大きな組織がもつ政治的な機能のなかに秘められたある種の危機が露呈されてしまったのである。さらにまずいことに、湯水のように資金がつぎ込まれているこの種の巨大なグローバル統治機構に対して私たちができるのは、せいぜいソーシャルメディアでその怠慢を批判する程度にすぎないということだ。それはまるで強風のなかで叫び声をあげるようなもので、なにかを変える力をもつひとなどだれひとりいないのである。なぜなら、民主的なプロセスは国家が有するものだからだ。

 

3 技術一元論の悪しき無限性

 

シュミットにしたがっていえば、WHOは本来的に脱政治化の道具である。どの報道機関であっても、この組織よりはコロナウイルスについて警告するという機能をうまくはたせたはずなのだから。じっさい、感染状況に対するWHOの初期の判断にしたがっていた多くの国々では、対策が大幅に遅れることになった。シュミットが述べているように、各国の代表によって構成され、人類の名のもとに築かれる統治機構は「それが国家を撤廃しないことと同様に、戦争の可能性を消去することはない。それは戦争のあらたな可能性を導入し、戦争の遂行を許し、連合しての戦争を承認し、そしてある特定の戦争を合法化し承認することで、戦争に対する数多くの歯止めを一掃してしまうのである」[★11]。第二次世界大戦以来、世界的な権力や多国籍の資本がグローバル統治機構を操ってきたわけだが、それはたんにこのシュミットの論理の延長でしかないのではないか。当初は制御可能だった今回のウイルスが、世界を地球規模の戦争状態へ落とし入れたのだろうか。いや、むしろこうした組織がかえって世界全体の病を進行させたのだ。そこでは技術一元論的な経済競争や軍備拡張がただひとつの目標となり、人間たちは大地に根差した地域性から引きはがされ、近代的な国民国家と情報戦によって形成されたいつわりのアイデンティティにつながれるのである。

 

例外状態あるいは緊急事態という概念は、もともと統治者が国家や自治体に免疫をあたえる口実となっていたが、9・11を機に政治上の常態となっていった。緊急事態の常態化は、統治者の絶対的な権力をあらわしているだけでない。近代国家が、利用できる技術的・経済的な手段のすべてを使って国境を拡大し、確立させることで、必死にグローバルな状況に対応しようとしつつも失敗に終わるさまをあらわしてもいるのである。国境の規制が有効な免疫学的ふるまいとなるのは、国境によって定義される主権者という角度から地政学をとらえる場合だけだ。冷戦以後、激化する競争は結果として技術一元論的な文化を生みだした。それはもはや経済発展や技術の進歩のなかでバランスをとることなどなく、むしろそのどちらも丸呑みにしながら、黙示録(アポカリプス)的な終末の一点に向かって突き進んでゆくのである。

 

単一の技術にもとづく競争は、競争と利益のために地球上の資源を破壊し、またどの参加者に対してもべつの道や方向性——つまり私が詳しく論じてきた「技術多様性 techno-diversity」を選ぶことを許さない。技術多様性というのは、たんにそれぞれの国が、異なるブランド戦略やわずかに違った特徴をもとにおなじタイプの、つまり単一の技術をつくりだすということではない。それはむしろ、価値観や認識論、そして存在の形式においてそれぞれ異なっている宇宙技芸[☆6]の多元性こそをあらわしているのだ。政治よりも経済的・技術的手段を優先させようとするこんにちの競争の形式は、しばしば新自由主義が原因だと考えられている。また、それと関係の深いトランスヒューマニズムでは、政治はたんにテクノロジーの加速によってやがて超克されるひとつの人間的な認識論にすぎないと考えられている。こうして私たちは近代性の袋小路にたどり着く。相手にさきを越される怖さがあるため、この競争から撤退するのは簡単なことではない。これはニーチェが描いた近代人の比喩によく似ている。つまり、ある集団が自分たちの村落を永久に捨てさり、無限を求めて航海にでるのだが、海のまんなかへたどり着いたときにはじめて無限が目的地でもなんでもないことに気づくというものである[★12]。そしてもはやどこにも帰る道がないというときに、無限ほど恐ろしいものはない。

 

あらゆる破局とおなじように、コロナウイルスによって私たちは、自分たちがどこへゆこうとしているのかと否応なく問いかけることになった。行き先が空虚であることはだれもが分かっている。しかし私たちは、悲劇性を帯びた「生きようとする」衝動に駆り立てられているのだ。激しい競争のなかで、国家の関心事はもはや国民ではなく経済成長となっている。人口に関心を寄せるのは、ひとえに人間たちが経済成長に貢献するからである。これは中国を見れば自明のことだ。そこでは、はじめはコロナウイルスにかんする報道を押さえ込もうとし、その後習近平(シー・ジンピン)がウイルスへの対策は経済へ悪影響をおよぼすと警告するやいなや、あらたな感染者の数が急激にゼロまで下降したのである。他の諸国がこれに様子見を決め込んだのも、おなじく容赦ない経済の「論理」によるものにほかならなかった。というのも、(WHOが反対した)渡航の制限をはじめ、空港でのスクリーニング検査やオリンピックの延期といったもろもろの感染症対策は、観光業への打撃となるからである。

 

メディアにくわえ、多くの哲学者たちは、アジアの「権威主義的な手法」と西洋諸国のいわゆるリベラル/リバタリアン的で民主主義的な手法にかんするいささか無邪気な主張をしている。つまり中国(あるいはアジア)の権威主義的な方法——しばしば儒家的だとかんちがいされるのだが、儒学は哲学として権威主義的でも強制的でもない——は、すでに普及している消費者管理のテクノロジー(顔認証やモバイルデータの分析など)を駆使して住民を管理することで、ウイルスの拡散を特定するのに一貫して効果があったということである。ヨーロッパで感染爆発が起こりはじめたころは、まだ個人情報を利用すべきかどうかをめぐって議論があった。だがもし、ほんとうに「アジアの権威主義的統治」か「西洋のリベラル/リバタリアン的な統治」のどちらかを選ばないといけないなら、アジアの権威主義的統治のほうが、さらなる破局と向きあうにあたってより受け入れやすいものではある。というのも、このようなパンデミックを管理するためのリバタリアン的な方法は本質的に優生学的であり、自己淘汰の原理によってより年老いた住民がすみやかに排除されることを認めてしまうからである。いずれにせよ、このような文化本質主義的な対比は誤解を招くものだ。なぜなら、これは共同体の団結や自発的な動き、それから人々が年長者や家族に対してもつさまざまな道徳的責務を無視したものだからである。とはいえ、この種の無知は、虚栄心をもって自分自身の優越性を表明するためには必要なものではあるが。

 

しかし、私たちの文明はどこへ向かってゆけるのだろうか。この問いの規模はほとんど私たちの想像力を圧倒しており、私たちはなすすべもなくただ「普通の生活」をとり戻したいと望むしかない。たとえ「普通の生活」という言葉がどんな意味であったとしても。20世紀の知識人たちは、シュミット的な政治的なものの概念を越えるような地政学の選択肢や構成を探し求めていた。たとえばデリダは、『友愛のポリティックス』のなかで友愛の概念を脱構築することによってシュミットに応答した。脱構築は友愛と共同体との存在論的差異を明らかにし、それによって20世紀の政治理論の根幹をなす友と敵の二項対立を乗り越えるもうひとつの政治、つまり歓待を示すのである。「無条件」で「計算不可能」な歓待は、おそらく友愛とも呼べるだろうが、地政学においては主権の土台を崩すものだと考えられる。まさに日本の脱構築の哲学者である柄谷行人が主張したように、カントが夢みた永遠平和は、主権が贈与としてあたえられている場合にのみ可能になるのである。この贈与とはモース的な贈与の経済におけるもので、それはグローバル資本主義の帝国のあとに到来しうるという[★13]。しかしそのような可能性は、主権の撤廃を、つまり国民国家の撤廃を条件にしているのである。柄谷によれば、そのためには私たちが第三次世界大戦を経験し、その後国連より強大な権力をもった国際的な統治機構が誕生しなければならない。だが、じつのところアンゲラ・メルケルの難民政策や、鄧小平(ドン・シャオピン)があざやかに構想した「一国二制度」は、戦争を回避しつつこの結末へと向かうものだ。とくに後者には、連邦制よりも洗練された興味深いひとつのモデルになる可能性がある。しかし、現状前者は激しい批判の的になっており、後者は了見のせまい国粋主義者たちや教条的なシュミット主義者たちによって破壊されつつある。結局どの国もさきに進みたがらないのであれば、第三次世界大戦がいちばん手っとり早い選択肢になるのだろう。

 

その日が到来するまえに、そして(私たちがうすうす感づいている)人類を絶滅の危機に追いやるような重大な破局を迎えるまえに、やはり私たちは問うべきだろう。「有機体論的」なグローバル免疫システムというものが、たんにコロナウイルスと共存しようと呼びかける以上のものであるならば、それはどのようなものなのかと[★14]。もしグローバル化の継続を、それもより矛盾の少ない方法での継続を考えるなら、どのような共免疫 co-immunity あるいは共免疫主義 co-immunism (これはスローターダイクが提唱するあらたな用語だ)が可能だろうか。スローターダイクの共免疫の戦略は興味深いが、政治的には両義的だ——おそらくこの概念が彼のおもな仕事のなかでもあまり詳細に論じられていないからでもあるのだろう——それはいわば極右政党「ドイツのための選択肢 (AfD)」の国境に対する政治的見解と、ロベルト・エスポジトのいう汚染された免疫 contaminated immunity のあいだで揺れ動いている。しかし問題は、私たちが依然として国民国家の論理にしたがっている限り、けっして共免疫にはたどり着けないということだ。その理由はたんに国家が細胞でも有機体でもないから——この隠喩が理論家にとってどれほど魅力的かつ実用的だったとしても——であると同時に、より根本的には、たとえ国際的な組織や評議会という形式をとっていたとしても、この概念自体が友と敵にもとづく免疫性しか生みださないからである。近代国家はすべての臣民によって構成されるリヴァイアサンのようなものだが、すくなくとも人道的な危機が到来するまでは、経済成長と軍備拡張を越える関心事をもつことはない。さしせまる経済危機への悩みをかかえながら、近代国家は巧みに操作されたフェイクニュースの(対象ではなく)源泉になるのである。

 

4 抽象的な連帯と具体的な連帯

 

ここで境界の問題へ戻り、私たちがいま戦っているこの戦争の本質について検討してみよう。国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、今回の戦いは第二次世界大戦以来、国連が経験した最大の難局だと見なしている。ウイルスとの戦争とは、なによりまず情報戦である。敵が目に見えない以上、個人の移動や共同体についての情報を通じて見つけだすほかない。戦いの有効性は、情報を集めて分析する能力にくわえ、最大限の効率を達成するために利用可能な資源を動員する手腕にかかっている。ネット上できびしい検閲をおこなっている国家は、ソーシャルメディアに出回っている「センシティブ」なキーワードを抑え込むようにウイルスも抑え込むことができる。政治的な文脈では、「情報」という語の使用はしばしばプロパガンダと同一化されてきた。ただ、それを単純にマスメディアとジャーナリズムの問題とか、ましてや言論の自由の問題などと考えるのは避けるべきだろう。情報戦は21世紀の戦争である。それは特殊なタイプの戦争なのではなく、むしろ永続的な戦争なのだ。

 

ミシェル・フーコーは、「社会は防衛しなければならない」にまとめられた講義のなかで、「戦争はべつの手段でなされる政治の継続である」というカール・フォン・クラウゼヴィッツの警句をひっくり返して「政治はべつの手段でなされる戦争の継続である」と言った[★15]。このようにひっくり返すことで、戦争がもはやクラウゼヴィッツが念頭においた形式をとっていないことを示しはしたが、しかしフーコーは情報戦についての言説を展開したわけではなかった。ところで中国では、20年以上もまえにふたりの元空軍大佐が『超限戦』(制限なき戦争、あるいは限界を超えた戦争)というタイトルの本を出版している。これはすぐにフランス語に翻訳され、『ティックン』誌にかかわる集団や、のちには不可視委員会 the Invisible Committee へ影響をあたえたと言われている。このふたりの元空軍大佐は、クラウゼヴィッツはよく理解していたものの、フーコーは読んでいなかった。しかし彼らがたどり着いた結論は、伝統的な戦争は徐々にすがたを消しつつあり、おもに情報技術によって導入され、実現される内的な戦争へとかわるというものだったのである。この本自体はアメリカのグローバルな戦争戦略を分析したものとして読めるのだが、より重要なことに、情報戦がいかに政治や地政学を再定義するかについての鋭い分析としても読むことができる。

 

コロナウイルスとの戦争は、同時に誤報や虚偽の情報との戦いでもある。これはポスト・トゥルースの政治の特徴だ。ウイルスの発生は現在の危機を引きおこした偶然の出来事かもしれないが、戦争そのものはもはや偶然ではない。情報戦はまた、(ある程度薬理学的な)ふたつの可能性を切り開いている。ひとつめは、戦争がもはや国家を基準の単位とせず、むしろ見えない兵器とあいまいな境界によって、たえず国家を脱領土化してしまうというものである。ふたつめは内戦であり、それは情報圏の競合というかたちをとる。コロナウイルスとの戦争は、ウイルスの保菌者との戦いであり、またフェイクニュースやうわさ、検閲、虚偽の統計、誤報などを駆使して指揮がとられる戦争である。アメリカがシリコンバレーのテクノロジーを用いて情報圏を拡大し、地球上のほとんどの住民のもとへ侵出しているのと同時に、中国もまた世界でも有数の大規模かつ高度な情報圏を構築しており、そこには人間と機械の両方で構成された隙のない機能と設定をもつファイアウォールがそなえられている。それによって中国は、14億もの人口をもちながらウイルスを抑え込むことができているのである。この情報圏は、「一帯一路」という構想にともなうインフラと、すでにアフリカに構築していたネットワークを頼りに拡大を続けている。そのためアメリカは、安全保障や知的財産保護の名のもとに、ファーウェイが情報圏を拡大するのを阻んでいる。もちろん、情報戦は統治者たちだけが遂行するわけではない。中国では、さまざまな陣営が中央メディア、新聞などのオールドメディアやそのほかの独立系メディア各社を介してせめぎあっている。たとえば、オールドメディアと独立系メディアは、感染爆発にかんして国家が提示した数値に対してファクトチェックをおこない、政府にまちがいを是正させたり、武漢の病院へより多くの医療機器を分配させたりしたのである。

 

国民国家は物理的な境界を守る必要があるが、同時にその境界を越えて技術的かつ経済的に拡大し、〔情報圏という〕あらたな境界を設立している。コロナウイルスが明らかにしたのは、このような情報戦の内在性だ。情報圏は人間によって構築され、さらにここ数十年のあいだに著しく拡大されたにもかかわらず、依然として生成の過程にあり、未確定のままである。共免疫にかんする想像力が、たとえば実現可能な共産主義やあるいは国家間の相互扶助といった抽象的な連帯でしかありえない限り、それは「人類」の場合とおなじように、シニシズムに対して脆弱だ。抽象的な連帯を発展させた哲学の言説ならば、ここ数十年のあいだにいくつか存在した。だがそうした議論は時として派閥化したコミュニティに変化してしまう。すなわち、その言説に賛同するか反対するかによって〔コミュニティにとっての友と敵を分ける〕線引きがなされるような免疫性をもってしまうのである。そもそも抽象的な連帯が魅力的なのは、まさにそれが抽象的だからだ。つまり具体的でいることとは違って、抽象的なものには土台も地域性もない。だからどこにでも移送できるし、どこにでも落ち着くことができる。しかし抽象的な連帯とはグローバル化の産物であり、とうに終わりを迎えたはずのものに向けられた大きな物語(あるいは形而上学)なのだ。

 

真の共免疫とは抽象的な連帯のことではなく、むしろ具体的な連帯から出発するものである。この具体的な連帯の共免疫が、つぎのグローバル化の波(というものがあったとして)の基盤にならなくてはいけない。今回のパンデミックがおこってからというもの、真の連帯による行為が数えきれないほど生みだされている。たとえばあなたがスーパーへ行けないときにだれが代わりに買い物をしてくれるのか、またあなたが病院へ行かないといけなくなったときにだれがマスクをくれるのか、またあるいはだれが命を救うために人工呼吸器を提供してくれるのかなどなど、これらすべてはじつに重大な問題になる。また、医療コミュニティのあいだにも連帯ができており、ワクチンの開発に向けて情報共有がおこなわれている。ジルベール・シモンドンは、技術的対象を介して抽象的なものと具体的なものを区別した。抽象的な技術的対象はもち運んだり分離させたりできる。つまり、18世紀の百科全書派たちが歓迎した、進化の可能性について楽観的な考えを(いまに至るまで)もたせているような技術のことである。他方具体的な技術的対象とは、人間と自然の両方の世界に(おそらく文字どおり)基盤をもち、両者の媒介となるはたらきをもつものである。サイバネティクスにもとづく機械は機械式時計よりも具体的であり、機械式時計は単純な道具よりも具体的である。ならば私たちは、国民国家と抽象的な連帯にもとづく免疫学の袋小路を回避できるような具体的な連帯を考えることができるだろうか。また、そのような新しい免疫学を指し示す機会としての情報圏を考えることができないだろうか。

 

おそらく私たちは、情報圏という概念をふた通りの方法で拡張する必要があるだろう。まず情報圏の構築とは、技術多様性を構成することで、技術一元的な文化の土台を内側から崩し、その「悪しき無限性」から抜け出すための試みであると考えることができるだろう。この技術の多様化は、生き方の多様化や共生のかたちの多様化、そして経済の多様化などをも示している。というのも、技術が宇宙技芸である限り、そこには人間ではないものやより大きな宇宙との異なる関係性が組み込まれているからである[★16]。この技術多様化は、技術に倫理的な枠組みをはめ込もうというものではない。というのも、そのような枠組みはきまってあまりに遅れてやってくるものであり、またたいていなにかに背いているからである。技術や私たち自身の態度を変えなければ、私たちは生物多様性を、持続可能性が保証されない例外的な事象としてしか維持できなくなるだろう。言い換えれば、技術多様性がなければ生物多様性は維持できないのだ。コロナウイルスは自然からの復讐ではない。それはむしろ技術一元論的な文化の帰結であり、そこでは技術そのものが基盤をうしなうと同時に、ほかのすべてのものの基盤になろうとするのである。いま私たちが生きている技術一元論は、共存の必要性を無視し、たえず地球をたんなる在庫 standing reserve と見なしてしまう。そこで持続する過酷な競争は、さらなる破局を生みだし続けるだけだ。そのような発想でいえば、私たちは「宇宙船地球号」を枯渇させ、破壊したあとには、そのまま「宇宙船火星号」へ乗り込み、またおなじように枯渇させ、破壊するほかないということになるだろう。

 

情報圏という概念を拡張するふたつめの方法を言おう。それは、情報圏とは国境を越えて拡大する具体的な連帯であると、つまり国民国家(および事実上グローバル権力の傀儡となっている国際的な組織)という観点にもとづかない免疫学だと考えることだ。具体的な連帯を生みだすには、技術多様性を実現し、それによってべつの種類のあらたなテクノロジーを開発する必要がある。それはたとえばあらたなソーシャル・ネットワークや共同作業のためのツール、それからグローバルな共同作業の基盤を形成しうるような、デジタル技術にもとづく組織のインフラである。デジタルメディアは、すでにかなりの社会的な歴史をもっているが、しかしシリコンバレー(および中国の WeChat)を除いて、グローバルな規模に到達しているものはほとんどない。その理由は、おおよそ私たちが受け継いできた哲学の伝統にある。それは自然と技術や、文化と技術のあいだに対立を設けるものであって、そのせいで私たちは技術の多元性というものが実現可能だと考えられずにいる。技術狂愛(テクノフィリア)と技術恐怖症(テクノフォビア)は、どちらも技術一元論的な文化で発症する症状だ。私たちは、ここ数十年にわたるハッカー文化やフリーソフト、オープンソースのコミュニティの発展をよく見てきたわけだが、それらの目的は覇権を握るテクノロジーに対していかに代替案を生みだすかというものであって、べつの種類のあらたな接続や共同作業の方式を構築することはなく、またあらたな認識論を打ち立てるというより重要な方向にも向かわなかったのである。

 

今回のコロナウイルスの件によって、データ経済によるデジタル化や包摂のプロセスは加速し続けるだろう。なぜなら、これまでのところそれが感染拡大に対抗するためのもっとも有効な手段だからだ。じっさい、私たちはいま、プライバシーを守ってきたはずの国々が、感染爆発の経路を追跡するために、一転して携帯端末のデータの利用に賛同するという光景を目にしている。しかしここで一歩立ちどまり、デジタル化を加速するこのプロセスをひとつの機会に、つまり現在の地球規模の危機をはっきり示すカイロス kairos〔機会〕にできないかと問いかけてみてはどうだろうか。感染症に対して、いま地球規模での応答が求められている。それはいわば私たち全員がおなじひとつの船に乗せられてしまったということである。そして「普通の生活」をとり戻すという目標では、応答としては不十分だ。コロナウイルスの感染爆発の結果、この20年来はじめて、あらゆる大学の学部でオンライン授業が提供されようとしている。授業のデジタル化に反対する理由はいくつもあるだろうが、たいていの理由はさほど重大でもなく、また非合理的なものだ(デジタル文化を専門的に扱う研究機関では、人的資源の管理運営のためにはやはり物理的に現場にいることが重要だろうと考えられているが)。たしかに、オンライン授業が完璧に物理的な教場の代わりになることはないだろう。しかしオンライン授業は、まさに知へとアクセスする道を根本的に切り開くと同時に、多くの大学が財政難に直面しているいま、人々を教育問題に引き戻してくれるのである。コロナウイルスによって普通の生活が中断されたことで、私たちはもとの習慣を変えることができるだろうか。たとえば、この先数か月(あるいは数年)にわたって、世界のほとんどの大学がオンライン授業を使用することになるだろうが、その期間をデジタル技術にもとづく本格的な教育研究機関をかつてない規模で創設するチャンスにできないだろうか。グローバル免疫学を実現するには、そのように抜本的な再構成が必要になるのである。

 

この論考のはじめに引用したのは、1873年ごろに書かれた、ニーチェの「ギリシア人の悲劇時代における哲学」という未完のテクストである。そこでニーチェは、当時彼が哲学という学問分野から排除されたことについては言及していないが、代わりにギリシアの哲学者たちは文化の改革をしたのだと言っている。彼らは科学と神話、それから理性と情熱を調和させようとしたのだった。ただ私たちが生きているのは、悲劇の時代ではなくむしろ破局の時代である。この時代においては、悲劇性(トラジスト)の思考も道家(ダオイスト)思想も、それ単体では破局から抜け出すことができない。グローバルな文化の病について考慮するなら、私たちにはいますぐ改革が必要だ。そしてその改革は、かつて哲学が強制し、また無視してきたものの呪縛から私たちを解放しうるあらたな思考や枠組みによって推進されるのである。コロナウイルスによって、すでにデジタル技術の脅威にさらされていた多くの組織が打ち砕かれることだろう。また、(テロリズムや国家の安全を脅かすものにくわえて)ウイルスに対抗するために、監視やそのほか免疫学的な対策が強化されてしまうのもやむをえまい。いまはより強力かつ具体的でデジタルな連帯が必要なときである。デジタルな連帯といっても、べつに Facebook や Twitter 、あるいは WeChat をもっと駆使せよというわけではない。むしろこの技術一元論的な文化の過酷な競争から離脱し、べつの種類のあらたな技術にくわえ、それにふさわしい生活の形式やこの惑星と宇宙に生きる方法を用いて、技術多様性をつくりだすことである。ポスト形而上学の世界のなかで、私たちに必要なのはおそらく形而上学的なパンデミックでもなければ、ウイルス指向存在論などでもない。ほんとうに必要なのは、迫りくる黄昏のまえに、差異と多様性をもたらす具体的な連帯なのだ。

 


 

Yuk Hui, “One Hundred Years of Crisis,” e-flux Journal no. 108, April 2020. URL=https://www.e-flux.com/journal/108/326411/one-hundred-years-of-crisis/

なおこの翻訳は英文を底本としているが、蘇子瀅による中国語訳(https://philosophyandtechnology.network/3591/article-one-hundred-years-of-crisis-by-yuk-hui-cn/)も参照した。

 

 

 

★1:Paul Valéry, “Crisis of the Spirit(https://en.wikisource.org/wiki/Crisis\_of\_the\_Mind)” (もとの訳題は “Crisis of the Mind”), trans. Denise Folliot and Jackson Matthews, 1911. 〔邦訳はポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』、恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年、7頁。訳文は変更している。〕「精神の危機 La Crise de l’Esprit」は、もともと英語で、1919年4月11日と5月2日に『アシニーアム』誌で発表された。なおフランス語のテクストは、おなじ年の8月に『新フランス評論』誌で発表されている。

 

★2:Valéry, “Crisis of the Spirit.” 〔邦訳は同28頁。訳文は変更している。〕

 

★3:「悲劇性 Tragist」とは、私が近刊の『芸術と宇宙技芸 Art and Cosmotechnics』(ミネソタ大学出版、2020年)で使用している新語である。

 

★4:Yuk Hui, “What Begins After the End of the Enlightenment?( https://www.e-flux.com/journal/96/245507/what-begins-after-the-end-of-the-enlightenment/),” e-flux journal no. 96, January 2019 〔邦訳は、ユク・ホイ「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」、河南瑠莉訳、『現代思想 2019年6月号 特集=加速主義』、青土社、2019年所収。〕

 

★5:9・11の攻撃がもつ自己免疫的な特徴については、以下を参照。Giovanna Borradori, Philosophy in a Time of Terror: Dialogues with Jürgen Habermas and Jacques Derrida, University of Chicago Press, 2004.〔邦訳はジャック・デリダ、ユルゲン・ハーバーマス、ジョヴァンナ・ボッラドリ『テロルの時代と哲学の使命』、藤本一勇、沢里岳史訳、岩波書店、2004年。〕

 

★6:“Wenn die Globalisierung zur tödlichen Gefahr wird(https://www.spiegel.de/politik/ausland/coronavirus-wenn-die-globalisierung-zur-toedlichen-gefahr-wird-a-00000000-0002-0001-0000-000169240263),” Der Spiegel, January 31, 2020.

 

★7:Peter Sloterdijk, “Es gibt keine moralische Pflicht zur Selbstzerstörung,” Cicero Magazin für politische Kultur, January 28, 2016.

 

★8:以下を参照。Roberto Esposito, Immunitas: The Protection and Negation of Life, trans. Zakiya Hanafi, Polity Press, 2011.

 

★9:以下を参照。 Alfred I. Tauber, Immunity: The Evolution of an Idea, Oxford University Press, 2017.

 

★10:Carl Schmitt, The Concept of the Political, trans. George Schwab, University of Chicago Press, 2007, p.54.〔邦訳はカール・シュミット『政治的なものの概念』、田中浩、原田武雄訳、未来社、1970年、63頁。訳文は変更している。〕

 

★11:Schmitt, Concept of the Political, p.56.〔邦訳は同66-67頁。訳文は変更している。〕

 

★12 :以下を参照。 Friedrich Nietzsche, The Gay Science, trans. Josefine Nauckhoff (Cambridge University Press, 2001), p.119.〔邦訳はフリードリッヒ・ニーチェ『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』、信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993年、218頁。〕

 

★13:以下を参照。 Kōjin Karatani, The Structure of World History: From Modes of Production to Modes of Exchange, trans. Michael K. Bourdaghs, Duke University Press, 2014. 〔日本語版は柄谷行人『世界史の構造』、岩波現代文庫、2015年。〕

 

★14:生物学的な隠喩は広く受け入れられているわけだが、しかしそれが適切かどうかについても慎重に問う必要がある。私は『再帰性と偶然性』(ローマン&リトルフィールド・インターナショナル、2019年)のなかで、有機体論の歴史や、その認識論の歴史上での位置づけにくわえ、近代の技術との関係性を分析することでこの問題に異議をとなえ、(とりわけ環境政治に関連する)政治の隠喩としての妥当性を問いかけている。

 

★15:Michel Foucault, “Society Must be Defended”: Lectures at the Collège de France 1975–1976, trans. David Macey (Picador, 2003), p.15.〔邦訳はミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない コレージュ・ド・フランス 講義1975-1976』、《ミシェル・フーコー講義集成6》、石田英敬、小野正嗣訳、筑摩書房、2007年、18-19頁。訳文は変更している。〕

 

★16:私は『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(アーバノミック、2016年)のなかで、この「複数の宇宙技芸」としての技術の多様化について展開している。

 


 

訳注

 

☆1:エピグラフの訳出にあたっては、『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』、塩谷竹男訳、ちくま学芸文庫、1993年、353頁を参照した。なお、今年夏に刊行予定の『ゲンロン11』に掲載されるユク・ホイの論考「ヨーロッパのあとに、悲劇をこえて」でもこの箇所が参照されており、そこで示されたホイの解釈をふまえて、訳出は英文から直接おこなった。

 

☆2:引用箇所はそれぞれ、ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』、恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年、7頁および、『ヴァレリー詩集』、鈴木信太郎訳、岩波文庫、1968年、242頁を参照。どちらも訳文は変更している。

 

☆3:フリードリッヒ・ニーチェ『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』、信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993年、362頁参照。なお個々の表現は、本文でのユク・ホイの表記にしたがって変更している。

 

☆4:ここでいう器官学的な事件とは、単純にいえば、今回の感染症が機械と生命や社会が有機的につなぎあわされた結果発生したことを意味している。『創造的進化』のなかで、アンリ・ベルクソンは生命が無機的な物質を有機組織化するはたらきのひとつの側面として、人間の技術やその発明を考えた。のちにジョルジュ・カンギレムがこの仕事を称賛して「一般器官学概論」と呼ぶのだが、ユク・ホイはこれを批判的に継承して、器官学の概念を21世紀の高度に発達した技術的システムに適用しようと試みている。そこでは、機械はもはやたんに生命によって組織化された無機的な対象ではなく、むしろ人間の生命や社会的秩序を有機的につなぎあわせる媒介者として存在しているのである。したがって、器官学的な事件としての感染症拡大とは、より具体的にいえば、世界的な規模で発達した製造や物流のシステムが織りなすネットワークが、人間の生命活動に入り込むと同時に、ウイルスを媒介し、拡散する手段にもなっているということだと考えられる(そもそもウイルスを生物と考えるかどうかはともかくとして)。器官学にかんするユク・ホイの議論については、『再帰性と偶然性 Recursivity and Contingency 』 (ローマン&リトルフィールド・インターナショナル、2019年) 、とりわけ第三章と第四章を参照のこと。また訳者が以前翻訳したインタビュー「21世紀のサイバネティクス——ユク・ホイ『再帰性と偶然性』をめぐって(https://philosophyandtechnology.network/2910/cybernetics-for-the-twenty-first-century-an-interview-with-philosopher-yuk-hui-jp/)」にも簡潔な説明がある。

 

☆5:記事を公開した2020年6月現在、この箇所の原文は”undesirable”と表記されているが、これは”desirable”の誤りである(直前に”neither”があるため二重否定になってしまう)。本訳では、著者に確認し、後者の意味で訳出している。

 

☆6:宇宙技芸とは、要するに宇宙論と密接に結びついた技術のことである。本文でも言及されているが、ユク・ホイにとって技術多様性は、たんなる生産地や環境の違いがもたらすものではない。むしろ、それぞれの地域の異なる世界観や自然観、宇宙論を基盤にもつ多様な宇宙技芸がさしだされてはじめて実現される。そこで、こんにちの世界を均質化させつつある単一の宇宙論や形而上学にもとづく技術(それはそれでひとつの宇宙技芸である)を複数化させるために、ユク・ホイはそれぞれの地域性に彩られた宇宙論や技術の哲学を語りなおし、再発明する必要性を呼びかけるのである。そして中国哲学を例にこの作業をおこなったのが『中国における技術への問い——宇宙技芸試論 The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics』(アーバノミック、2016年)であり、その序論は仲山ひふみによって翻訳され、『ゲンロン7(https://genron.co.jp/shop/products/detail/144)』、『ゲンロン8(https://genron.co.jp/shop/products/detail/160)』、『ゲンロン9(https://genron.co.jp/shop/products/detail/188)』に掲載されている。そのほか、訳者の「哲学と世界を変えるには——石田英敬×ユク・ホイ×東浩紀 イベントレポート(https://genron-alpha.com/gb041_05/)」でも宇宙技芸という用語やその背景についてやや詳しく説明しているので、そちらも参照いただきたい。

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