ベルナールの思い出

Épineuil-le-Fleuriel, Summer 2015, Photo: Michaël Crevoisier

 

ベルナールがぼくたちを残していってしまったなんて信じられるだろうか。

それはたしかなことだけれども、ぼくには信じられないし、やがて信じられるようになるとも思えない。

 

8月7日、目が覚めてベルナールの訃報に触れたあと、ぼくはラジオで彼の声をきき、ベルナールの気配を、やさしさを、そしてあのあたたかなあいさつや笑顔を感じて涙がとまらなくなった。一週間前、ぼくはベルナールと電話をして、8月末にアルルで行なわれるイベントやぼくたちの未来のプロジェクトについて話をした。ベルナールの声には記憶していたより力がなかったけれど、彼自身は前向きだった。ベルナールは、携帯が不具合を起こしプリンターも故障してしまったが、オンラインで新しいプリンターを買うには携帯へ送信される認証コードが必要なので購入できないのだとぼくに不満をもらしてきた。けれども、彼は執筆をやめなかった。彼の死を知るまえの日、ぼくは自分がいつになく弱っている感じがした。お腹に痛みもあった。2年前に友人のコピーエディター〔原稿整理編集者〕が自殺したときもおなじ症状が起こった。ぼくは先週ベルナールに送る約束をした高麗人参を郵送するため、身をひきずるようにして郵便局へ向かった。けれど郵便局は COVID-19 のせいで閉まっていたのである。帰宅したあと、ぼくはベルナールにメッセージを送るつもりだった。彼が参加し、ぼくが編集していたふたつのジャーナルの特集号がもうすぐ出そうだと伝えるために。ぼくはそのとき送信しなかったことをとても悔やんでいる。ベルナールと話す機会はもう二度とないのだから。

 

ぼくがベルナールと出会ったのは2008年のロンドンだった。といっても、もともと彼の講義で何度も見かけてはいたのだが。ぼくは同僚と一緒に、ベルナールを迎えにセント・パンクラス駅に向かった。ぼくは若かった。わくわくしながら、とても緊張してもいた。そのころぼくはすでに『技術と時間1 エピメテウスの過失』やデリダとの共著の『テレビのエコーグラフィー』を読んでいたし、デイヴィッド・バリソンと、ベルナールの友人で長いあいだ彼の翻訳をつとめているダン・ロスの映画『イスター』も観て、賞賛していた。ぼくは自分の学生たちとこの映画を何度も見た。ほかのひとたちとおなじようにぼくもまた、銀行強盗をして投獄されていた五年のあいだにふたたび哲学を学びはじめたという彼の過去に惹かれた。ぼくはもともとハイデガーの『存在と時間』や「転回」以後の後期の仕事を集中的に研究していたので、技術にかんするハイデガーの思想の諸側面を理解していたつもりだったが、それでも『技術と時間1』を読むのはきわめて刺激的で、啓発的だった。ぼくはこの本を一文一文、何度も読み返した。そのすべてがすばらしい経験だった。ベルナールは技術〔technics〕の概念によってハイデガーの〈存在〉を脱構築し、さらにその思考に切り込み、内側から再構築するための突破口を開いた。しかしぼくがより感銘を受けたのは、西洋の哲学史そのものを脱構築しようというその野心にほかならない。ベルナールにとって、技術への問いはまさに第一哲学〔存在の根本を問う哲学〕であったものの、哲学の歴史によって(フロイト的な用語の意味で)抑圧されているのである。『技術と時間』の第1、2巻はハイデガーとフッサールの現象学の脱構築に専念していて、映画をあつかった第3巻はカントの『純粋理性批判』を脱構築し、フランクフルト学派の批判理論を批評するものになっている。

 

『技術と時間』の第3巻は、技術産業や資本主義に対抗する政治的な文章から始まっている。ベルナールはほとんど年に一冊本を出していて、そのテーマは美学や民主主義、政治経済学にオートメーション〔自動制御〕など多岐にわたった。ベルナールは産業そのものに反対していたわけではなく、むしろ産業の短期志向〔short-termism〕やあらゆる否認の形式をとる冷笑的な態度に抵抗していた。昨今の産業のプログラムは、利益をあげることにとらわれた短期志向に、とくに消費者主義にもとづいており、それによってもはや産業は人々、とりわけ(グレタ・トゥーンベリのような)若い世代を気に留めようとしなくなるのである。こうした状況のもとでも、技術は毒になってしまう。『技術と時間』の第3巻以降、ベルナールはとりわけマルクスやフロイト、シモンドン、生物学、そして経済などを読み解くなかであらたな武器を体系的に見つけだそうとしていた。ベルナールが2006年に友人たちと創設した Ars Industrialis という組織の課題は、産業を変容させることにささげられていた。たとえばパリ北部サン゠ドニでの直近のプロジェクトは、彼が「寄付の経済」と呼ぶあらたな政治経済学の展開を目的とした、さまざまな産業界のパートナーや銀行との共同活動である。

 

忘れもしない。それは雨の日だった。ベルナールは黒いコートと帽子を身につけ、いかにもフランスの知識人といった格好をしていた。ぼくは彼に傘をわたした。はじめは遠慮していたが、やがてさしてくれた。ベルナールはとても親切で、いまなにを読んでいますか、とたずねてきた。ぼくがあなたの『行動化 Acting Out』と、哲学史の研究者であるピエール・アドの本を読んでいますと答えると、彼はおどろいたようだった。そのころぼくはある重大な病から回復したばかりで、いにしえの精神的実践とベルナールの哲学との共鳴につよい関心をもっていた。やがてある学術会議でベルナールが基調講演を行ない、ぼくも発表をしたのだが、そのとき彼は関係性とデイヴィッド・ヒュームにかんするぼくの仕事にとても興味をもってくれて、今後連絡を取りあおうといってくれた。その数か月後、スコット・ラッシュの主催によりロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで開催されたベルナールとデヴィッド・グレーバー、ヤン・ムーリエ・ブータンの討論のとき、彼はぼくに今度パリでのセミネールで話をしてくれないかと頼んできた(ちなみにこのとき、ジョルジョ・アガンベンのファンを自称するロシアの芸術家が登壇者のまえに行って腰をおろし、抵抗という語で彼が理解している行為を実演してくれるという一幕があった)。彼がぼくの博士論文の指導を引き受けてくれたのはそのあとのことだった。ぼくはベルナールのことを尊敬していたし、彼と会って論文について議論しているときはいつも、ただただぼくが彼の時間を無駄にしているような気がしてならなかった。けれどもベルナールはあたたかく寛大で、けっしてぼくを学生としてあつかわず、むしろひとりの友人として尊重し、ぼくの思想を理解しようとしてくれた。ぼくにはそのような情景の数々を記録する第三次過去把持〔スティグレールの用語で、テクノロジーによる記録〕は備わっていないが、じつに多くの細部がいまもありありと目に浮かぶ。たとえばある会議に出ていたとき、ベルナールはぼくにあまり多くのハイデガーの著作を読みすぎないでくれないかといってきた。というのも、彼によるとほんとうに偉大な思想家は主要な仕事をひとつかふたつくらいしか残さないもので、それはハイデガーでいえば『存在と時間』だからだという。また、道路をわたろうとふたりで待っていたあるとき、ベルナールはいった。きみが今後の人生のなかでもっと真剣に取り組むべき人物がいる、それはジャック・デリダだと。ぼくは2016年に博士論文『デジタルオブジェクトの存在について On the Existence of Digital Objects』を発表した。そこでベルナールは、親切にも序文を寄せてくれたのだった。

 

ベルナールをより個人的に知るようになったのは、ぼくがロンドンからパリへ移住し、彼のリサーチ&イノベーション研究所〔IRI〕で働きはじめてからだった。IRIは、彼が2006年にポンピドゥー・センターの文化開発部長を辞めたときにヴィンセント・プイグと創設した研究所だ。ベルナールはポンピドゥー・センターの部長職に就くまえには、音楽家で作家のピエール・ブーレーズの招きのもと、ポンピドゥー・センターの関連機関である音響・音楽研究所(IRCAM)の所長にもなっている。ぼくがかつて出会っただれよりもベルナールの人生は伝説的だ。農場労働者になり、ジャズバーの店主になり、銀行強盗になり、ツールーズの監獄内で現象学者のジェラール・グラネルの助けを受けて哲学を学び、修士のころにはジャン゠フランソワ・リオタールの弟子になり、博士のころにはジャック・デリダの弟子になった。さらに1980年代、国立視聴覚研究所(INA) の副所長になる以前には、デジタル化にかんするフランス国立図書館との共同事業を含むいくつかのプロジェクトで責任者となり、IRCAMの所長となった。その後2018年にIRIから退職している。

 

のちにぼくは、仕事を見つけるためにフランスをあとにしてドイツへ行った。けれども、ベルナールとの関係はかえって深くなった。彼はぼくが働いていたロイファナ大学リューネブルク校で一学期のあいだ客員教授となり、のちにぼくの住んでいたベルリンにあるフンボルト大学でも客員教授をつとめたのである。だからぼくたちは、その期間中はほぼ毎週会うことができた。ぼくは2012年から、彼がフランス中央部の田園地帯にあるエピヌイユで開くサマースクールに毎年参加していた。そこではベルナールと彼の家族が、招待客や学生を連れて一週間のセミナーを行なっていた。あいにく2017年に終わりを迎えてしまったが、それは思索と友情の祭典だった。ベルナールの死によって、2010年ごろからほぼ毎年すごしていたあのフランスの夏がとても遠いもののように感じられる。

 

ぼくがはじめてベルナールや彼の家族とともに中国を訪れたのは2015年のことである。ベルナールはいつも、ぼくが彼を中国に連れて行ったのだとみんなに語っていたが、ぼくは逆だったと思う。当時ぼくはヨーロッパに住みはじめて10年が経っており、そのあいだは年に数日ほど両親と会うために香港へ行くだけで、中国大陸に立ち寄ったことはなかった。ベルナールとの杭州出張はぼくの人生のなかで重要な出来事だ。というのは中国を再発見できたからだけど、それはさいきん中国美術学院の院長になった高士明の寛大さのおかげでもあった。2015年から毎年、ぼくたちは杭州で修士の院生に集中講義を行なうことになり、そのときには昼食や夕食でほぼ毎日ベルナールと会うことができた。そしてあたたかい春の夜には、学院のとなりにあるイタリア料理店のテラスへ行き、ふたりでワイングラスを傾けた。とてもすばらしい会話がいくつもあった。たとえば2018年に杭州へきたときのこと。ベルナールはグラスを片手に煙草を吸いながら、ふとぼくにたずねた。以前あまりハイデガーを読まないでくれないかといったのを覚えているかい。はい、とぼくは答えた。覚えています、あれは10年前のことでした。ですが、ぼくはいうとおりにしませんでした。するとベルナールはにっこり笑っていった。きみが聞き入れてくれなかったのはわかっているし、いまでは私がまちがっていたと思っているよ。

 

2016年、ぼくは2冊めの単著『中国における技術への問い——宇宙技芸試論 The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics』を刊行した。これはハイデガーが1953年に発表した「技術への問い」という論考に対する応答と批評である。この本でぼくは、ベルナールとは異なるハイデガー読解を提示したけれど、第2部では京都学派と新儒家を脱構築するために、ハイデガーの世界史の概念に対する彼の批評を頼りにした。ぼくはこの本をベルナールにささげた。彼との数多くの議論がなければ、また彼が肯定してくれた反抗の精神がなければ、ぼくはこの一歩を踏みだすことができなかったからだ。けれども、ベルナールにとってこの本は問題含みだったようだ。ベルナールがぼくに異議をとなえたのはハイデガーの読解ではなく、古生物学者のアンドレ・ルロワ゠グーランの解釈だった。ぼくたちは、2018年に成都へ行ったとき、彼の息子のオギュスタンを連れてパンダを見に行く途中にこの問題を議論した。さらにぼくたちは、2019年の台北でのセミナーの際にもこの点を討論するはずだったのだが、それはかなわなかった。最終的に、ぼくたちは宇宙技芸の概念だけをとりあげた Angelaki 誌の特集のなかでこの討論を行なおうと考えた。その特集号は、折しもベルナールが亡くなった日に刊行されたのである。この号を編んでいたときもベルナールはとても寛大で、入院していた2020年の4月に、多大な痛みに苦しみながらも原稿を仕上げてくれた。ただベルナールは論考の方向性を変えてしまっており、ぼくたちは二度とこの問題について真っ向から対話することができなかった。

 

哲学と技術にかんして、ベルナールはたくさんの独創的で革新的な仕事を残してくれた。彼はけっして自分を単一の分野に制限しなかったし、またけっして浅はかな「学際的」研究で満足することもなかった。彼が挑戦していたのは、境界を打ち砕き、ぼくたちに未来図と希望を見せてくれるような新しい思考と実践を発明することにほかならない。ベルナールは破局と向きあった思想家である。より正確にいえば、彼は偶然の出来事をある哲学的な必然性にする好機をけっして逃さなかった悲劇の思想家なのだ。ベルナールには、約束していたあと何巻もの『技術と時間』を出す義務がある。かつてベルナールは、監獄でのサイケデリックな体験についてぼくに何度か語ってくれた。彼はその体験のさなかにテクストを一本書いたのだが、当時は自分でもそれを理解できなかったという。そこでジェラール・グラネルにテクストを見せたところ、彼は「これがあなたの哲学になるでしょう」といったそうだ。この箇所はベルナールの博士論文に含まれており、論文の審査委員だったジャン゠リュック・マリオンがそこを単独で出版したいと考えたそうだが、ベルナールはそれを断っている。このテクストは『技術と時間』の第7巻として発表されるはずだった。けれど、ぼくらはいまだに第4・5・6巻を待ちつづけている。ベルナールによると、この謎めいたテクストは螺旋にかんするものだそうだ。ぼくはそれを読んだことがないが、序論に「サイケデリックな生成」というタイトルをつけた『再帰性と偶然性 Recursivity and Contingency』という本のなかで、ぼくが書いたことと近かったのではないかと思いつつある。ベルナールはこの本を読み、ぼくがドイツ観念論やサイバネティクスにかかわることが重要だと考えてくれた。そしてフランスの各出版社にこの本を推薦してくれたのだった。とはいえ、再帰性と彼の螺旋の概念の関係性について議論することはかなわなかった。昨年ぼくがその機会を逃してしまったからだ。

 

一年前、ベルナールと湖畔を散歩していたとき、ぼくは彼の旧友である石田英敬や東浩紀としこたま酒を飲んだ話をした。ベルナールはとてもうれしそうな表情で、ぼくにこういった。監獄を出てからというもの、私は一度も酔っぱらったことがないが、それは酔った感覚が好きじゃなくなったからだ。だけど、例外を設けるのもわるくないかもしれないと。その後レストランに入って、ベルナールはワインをボトルで注文したのだが、ぼくは『再帰性と偶然性』を書き上げるのですっかり疲弊していたため、一杯だけしか飲めなかった。そのためベルナールは、ボトルの半分をホテルにもち帰ることになる。ぼくは彼を酔わせる機会を逃してしまったのだった。けれども、結局のところベルナールは、悲劇性をもち、酔いを必要としないひとだった。

 

ぼくは今年もういちど杭州でベルナールに会いたいと思っていたが、パンデミックがすべてを台なしにしてしまった。まえにベルナールと会ったのは2019年の11月で、そのときぼくたちは国立台北芸術大学の招待を受けて、台湾に行って修士の院生むけに授業を行なった。その後ぼくは、12月にパリへ行き、彼が毎年開催する学術会議で発表をするはずだったが、あまりに疲れはてており行くことができなかった。会議は今年の12月にも開催される予定だけれども、そこにはもうベルナールはいないのだ。ベルナールは貧困の時代にぼくらを取り残していった。それは愚かさが標準となり、政治がただの嘘でしかなくなってしまう時代だ。パンデミックは、彼が生涯をかけてたたかってきた悪を加速させてしまったのである。2016年ごろから、ベルナールはしばしば夢について、また夢みることの必要性について語っていた。産業資本主義は夢を破壊する。それはただ関心の操作をつうじて消費者主義を生みだしていくだけだ。彼にとって夢の能力は、カントが見落としていた能力である。ベルナールは、不可能なことを夢みる夢想家だった。ベルナールは、愚かさとたたかう闘士だった。彼自身、「たたかわねばならない il faut combattre」とよくいっていたように。ベルナールは、宮崎駿のアニメーション映画『風立ちぬ』をとても評価していた。この作品は、彼にとって夢みることの能力を明らかにした好例であった。そもそもすべての技術は、ほんらい夢である。だけれども、夢は悪夢にもなりうる。つまり薬理学的〔pharmacological〕だということだ。プラトンおよびデリダ以降では、ほかでもないベルナールこそが技術の薬理学者となった。だがいまや、科学や技術にかんするほとんどの大学は、産業ばかりのために仕事をしている。彼らは倫理について説くかもしれないが、もはや哲学を必要としていない。つまりもう夢みる力を失っているのだ。「風立ちぬ」という言葉は、ベルナールがヴァレリーの詩のなかで一番好きだった「海辺の墓」をもとにしており、それはつぎの一連で締め括られている。ベルナールという、ニーチェ以来のもっとも偉大な悲劇的人間が残したかもしれないこの言葉たちによって。

 

風 吹き起こる……  生きねばならぬ。

一面に吹き立つ息吹は 本を開き また本を閉じ、

浪は 粉々になって 巌から迸り出る。

飛べ 飛べ、目の眩いた本の頁よ。

打ち砕け、浪よ。欣び躍る水で 打ち砕け、

三角の帆の群れの漁っていたこの静かな屋根を。

 

ユク・ホイ

2020年8月8日

訳者: 伊勢康平

 

※訳者注記

・〔〕は訳者による補足である。訳注はあえてつけなかった・著作物などについては、既訳があるものは邦題のみを記し、そうでないものは、訳出した題と原文(英語)の題を併記した

・「海辺の墓」の引用は、『ヴァレリー詩集』、鈴木信太郎訳、岩波文庫、二四二頁に依拠した。なお旧字体や仮名づかいなどは変更している

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出版: Angelaki special issue (Vol 25, No.4): 宇宙技術